1890 年生まれの生粋のハワイアンだ。
まだハワイがアメリカに併合されていなかった時期に生まれ、幼少期はサーフィンに明け暮れる。
1800 年の初め頃やって来たキリスト教は、フラやサーフィンなど、自然の神を崇拝の対象とするあらゆる文化を禁止してしまう。
その禁止令がカラカウア王によって解かれるのは1874 年のことだ。
解かれたと言っても50 年以上も禁止されていた事を始めるのは後ろめたい気持ちがつきまとう。その頃サーフィンを始めたデュークは水泳も得意だった。
泳ぎの早さでデュークにかなう者はいなかった。
そんなデュークの噂がAAU(アマチュア・アスリート・ユニオン)の耳に届くも全く信用されなかった。
当時のアメリカは人種偏見がつよくて、白人以外のオリンピック選手という発想はなかったのだ。
「どうせデマに決まってるさ」と疑いつつも1911 年8月12 日にホノルル・ハーバーで行なわれる水泳大会にやってくる。
スタートの遅いデュークを見て彼らは安堵した「やっぱりね」。
まだデュークの実力を信じていなかったのだ。
ところが結果を見て驚愕する。
100 ヤードで55 秒4 という記録を出す。
それまでの世界記録を4秒 6も縮めたのだった。
だが、AAU は水流のせいにしたりしてこの記録を認めようとはしなかった。
有色人種の作った世界記録はあり得なかったのである。
しかし、デュークをオリンピックへ、の声がハワイ中から沸き上がる。
本土で行なわれる選考大会にデュークを送り出すための寄付が集まったのだ。
それでもさまざまな妨害を受けながらアメリカ中を転戦して歩く。
いつしかデュークの名はアメリカ市民の中でも広まって行き、ついにAAUもデュークを認めざるを得ない事になる。
その年のストックホルムオリンピックに出場したデュークは圧倒的な強さを発揮、100 米で金メダルを獲得。
1915 年 オーストラリア水泳連盟の招きでシドニーやニューサウス・ウエールズで水泳を披露する。同時に持参したサーフボードで波にも乗ってみせるのだ。
これをきっかけにしてオースートラリアにサーフィンが根付く。
1920 年 ベルギーのアントワープオリンピックでも金メダルを獲得。
すっかり英雄になったデュークは映画出演の契約を結ぶ。
28本の映画に出演しているがピーターオトールや伊丹十三とも共演している。
続くパリのオリンピックを目指すも彗星のごとく現れた若者に破れて代表から漏れる。
その若者とは映画「ターザン」の役をやったジョニー・ワイズミューラーだった。
1925 年 カリフォルニアのニューポートで嵐のために沈みかけていたヨットの乗客8人をサーフボードで救出。
以後、ワイキキビーチにはレスキュー用のサーフボードが置かれるようになる。
1940年 ロイヤル・ハワイアン・ホテルのボールルームのダンサーに踊りを教えに来ていたナディーンと結婚。
1963 年 ハワイを訪れたジョン・F・ケネディーはタラップを降りると真っ先にデュークの元に駆け寄って言った。
「デューク 会えてとても嬉しいよ」
若い頃のケネディーは東海岸のサーファーだった。
1964 年 東京オリンピックに公賓として招待されている。
1968 年 死去、
ワイキキ・ヨット・クラブのパーキングで愛車のロールスロイスに荷物を積んでいるとき重いトランクリッドが落ちてデュークの頭を強打。そのまま帰らぬ人になった。
1968 年1月28 日 葬儀はデュークの愛したワイキキの浜辺で行なわれた。
ビーチには砂浜が覆い尽くすほどの人が集まってデュークに別れを告げた。
小さなブロンズの箱に納まった遺灰の上に司祭がひとつまみの砂を落とし、その箱を受け取った牧師がビーチボーイの漕ぐカヌーでロイヤル・ハワイアン・ホテル前のビーチから静かに沖へ向かった。
一隻目のカヌーにはデュークの愛用したサーフボードと遺灰が、2隻目には白いハワイアンドレスをまとったナディーン・カハナモク未亡人が、25 隻ものアウトリガーカヌー、150 以上のサーフボードがカヌーを取り巻くように後に従った。
そして、最初に一崩れする波間に遺灰の入った箱は沈められた。
この日のホノルル・アドバタイザーの見出しは「ホノルルは涙雨だった」
彼のスタッチューはワイキキの浜辺で見る事ができる。
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